論理学者だからこそ言いたい。論理にこだわるとダメな理由。

哲学

私は現在、主に教育者として活動しているわけですが、哲学博士でもあります。専門トピックは論理学で、教鞭をとる時には哲学か論理学のトピックが多いです。

そうした訳で、キャリアのはじめは論理学者として身を立てた私ですが、研究者をやっている頃から論理の限界というのをつくづく感じてきました。

もちろん、論理は大変重要で、研究することの意義が非常に大きいものだと信じています。また、論理学への情熱は今でも全く変わっていません。

しかし、最近、いろんな形で論理的に考えることがもてはやされ過ぎているような気がしてなりません。「論理的に考えなくてはならない。」「論理的に考えれば勝てる」「論理で得をする」的な雰囲気を見るにつけて、違和感を禁じ得ません。何か論理の絶対的重要性とか優位性とか、そういったことが主張されているように思えます。

確かに、論理が必要であったり、便利であったりすることもありますが、いつでもそうである訳ではないし、むしろ、論理だけでは何もなりません。更に言えば、論理にこだわりすぎてしまうことは非常に危険だと思います。今回はその辺のことを、論理学者の目線から、少しだけお話ししてみようと思います。

論理とは何か?

まず、論理とは何でしょうか。ザックリのイメージとして言えば、正しい考え方や議論の仕方の背景にある規則や法則といった感じです。

例えば有名な論理規則で、三段論法なんていうのがありますね。人間は動物である。動物には寿命がある。よって、人間には寿命がある。「AならばB」、「BならばC」という2つの前提から、「AならばC」と結論する論理規則ですね。「人間ならば動物」、「動物ならば寿命あり」から「人間ならば寿命あり」というわけですね。

このようにある前提から結論を導き出すことを推論と言いますが、論理的な推論規則は、絶対に間違いフリーで、厳密に正確な推論のルールと考えていただければいいと思います。

三段論法以外にも、様々な論理法則があります。どういう論理法則があるのか。また、そうした論理法則に共通する性質は何か。さらに、論理法則を体系的に整理することはできるのか。論理学ではそういったことを研究します。

論理やそれを研究する論理学はもちろん重要です。論理法則やそれらに基づいた論理体系を学ぶことで、正しく厳密に考えなくてはいけない時に、背景にある議論や考え方を整理して、理解することができます。間違いがある場合にはそれに気づくきっかけを与えてくれます。

また、論理を深く研究することで、私たちの論理的思考に関する驚くべき結果を得ることもあります。ゲーデルの不完全性定理などは非常に良い例だと思います。

論理が全てではない

そのように論理や論理学はとても重要なものですが、一方で、いつもいつも私たちの考えや議論が細部まで厳密に間違いフリーで正しいものに沿っている訳ではありません。むしろ、それとは逆で、私たちの思考が、完全に論理的な場合は極めて少ないと言って良いでしょう。

さらに、私たちの日常の思考が必ず論理的である必要もありません。私たちの日常は、何かの推測に基づいたり、確証のない経験則に基づいたりしているのが常です。間違えや予測不可能なことが起こり得るとわかっていても、私たちは必要な決断を下しながら日々をそれなりにうまく過ごしていくことができるのです。

例えば、今週毎日繰り返されたことでも、明日繰り返されるかわかりません。それにもかかわらず、私たちは明日もこれまでと大方同様であることを前提に生きていきます。電車の時間も同じだし、自分の家もあるし、学校もあるし、会社もあるし、そういったことを前提に生活しています。論理的には、過去そうであったからといって、未来にそうであるとは限らないのに、明日も大体同じ世界があることを前提に生きていく決断をすることによって、平穏な日々を過ごすことができます。

それから、人間の感情や社会での複雑なコミュニケーションは、論理を超えた、憶測や推測無くして、円滑に行っていくことはままなりません。

さらに、仮に完全な論理的確証が得られるような場合でも、論理的で厳密な思考をすることには膨大な時間がかかってしまうことでしょう。日常を過ごしていく上で、タイムリーな決断を下さなければいけない時に、現実的ではありません。

つまり、私たちの日常は論理だけでは成り立たないのです。私たちは論理外の直感や思考に頼っているし、頼らなければなりません。不確実ではあるがそれなりに正しそうな考え方やアイディアを試してみて、間違いがあれば調整したりして、うまくやっていく訳です。私たちにはそうして「非論理的」に生きていく能力がある訳です。

論理に対する正しい姿勢

論理学者として言いたいことはこの点です。論理が絶対的にいつでも必要であるとか、便利であるとか、はたまた、常に論理的であることを目指さなければならないということは、一切ありません。

私のオススメする持つべき論理に対する姿勢は、以下の2点を意識することです。

1. 論理が便利だったり重要である時を見極めるべし。
2. 論理的であることで不都合や悪影響が生じることもある。

論理を学んでおくと、間違いフリーでなければならないような時に厳密な思考や議論の方法を使えるという利点があります。そのように、論理というものは高々、役立つ時に役立つツールでしかありません。つまり、論理が便利そうだったり、重要そうな場合を見極めて、そうした時にだけ、論理的思考のリソースを使っていく。いつもいつも論理的であろうとしない。そうしたマインドを持つというのが、第1の点になります。

それどころか、反対に、論理的であることがよからぬ結果に繋がりやすいような場合もあります。そうしたことも意識して、論理に頼るべきかどうか考えることも必要なことがあります。これが第2の点になります。

論理的であるためには労力や時間がかかります。必要がないのに、隅々まで間違いフリーで考えようとすると、すべき時にすべき決断をすることができないことがあります。

また、現在の考え方の枠を超えて、問題の解決法やイノベーティブな考え方を生み出そうとしているような時も、論理の使用は限定的です。現在の枠組みやルールの中で、論理的な推論だけしかできなければ、誰しも同じようなアイディアにしか行き着きません。すでに存在する困難な問題のイノベーティブな解決に至るには往々にして、現在の考え方の枠組み自体を飛び越えて考えていくような力や発想が必要です。

それから、論理的であれば、より説得力が増すというようなことが言われるかもしれませんが、論理性と説得力は全くの別物です。論理的であることで、必要以上に理性的でドライな印象を与えてしまい、相手がアレルギーを感じてしまうことだってあります。論理的であることが説得力に繋がるというのはあまりにも短絡的な考え方です。説得の際はまずは相手の立場を考えて、戦略を立てるべきです。その上で、論理的であることが適切であるような場合に限って、論理を適宜使っていくことをお勧めします。

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