日本人は、なぜ「学問」に不信感を抱いてしまうのか?

教育
日本のアンチ・アカデミズムとは?

私が大学院生の頃アメリカに留学したばかりの頃、周りの学生や社会人の知識の広さや深さが、同等の社会ステータスを持った日本人と全くレベルが違っているなと感じたことがあります。

ことにアメリカの大学空間では、多くの人々が学問や知識の価値を信じ、 日々真剣に研究、知識の追求に尊敬の念をもって勤しんでいることに圧倒されました。学生や研究者は学問という崇高な目的のために知識を追い求め、学業や研究に邁進する。

大学外の人々はハイレベルの学位を志すことを敬意をもって賞賛する。そんな空気が大学や大学周辺を支配していました。

そうした実感を持って改めて考えてみると、日本では逆に、学問や知識一般に対する否定的な姿勢が根強く存在しているのではないかと感じるようになりました。「お勉強ができても、人間性がいいとか、本当の意味で賢いということにならない。」「ガリ勉で勉強ばかりしてきたやつは、社会で全然役に立たない。」等々。

どこの国にでも何らかの形で見かける類の見解ではあるかもしれませんが、特に日本においては知識や学問を、生活や社会の本質から異質なものとみなし排除的に扱う姿勢をよく見かけました。

「アンチ・アカデミズム」とでも呼びたくなるような、伝統的な知識や学問に対する不信感や、時には、嫌悪感が存在するようにも感じました。一般社会のみならず、私が経験した日本の教育空間においても、その様な空気感が少なからずあったのではないでしょういか。

「受験勉強」と「知識」が同一視されている?

そのようなアンチ・アカデミズムが実際にあるとして、その背景にあるのは何でしょうか。

まずは日本の大学入試を考えてみましょう。日本の教育における受験勉強の激化がどのようにアンチ・アカデミズムの背景を形成しうるかということを推論してみると以下のようなところでしょうか。

学歴が職業選択の幅を決定づける学歴社会において、教育が社会障壁となる。

その社会障壁が作り上げるハイアラーキーの中で競争が激化する。それと同時にさらなる科目の専門化が進み、専門化した知識体系についての試験が競争の場を提供する。

そのことによって、学校で教えられる科目は、拡大し激化する受験競争の一助としての色合いのみが濃くなり、元々の学問としての目的や社会的な実利や意義から切り離されていく。

受験は不自然なほどに難解で、無意味なものを詰め込み暗記する競争に激化していき、そこで学ばなくてはいけないものは、その競争外での意味を失っていく。

そうした流れにも関わらず、日本の学歴社会における受験競争、受験勉強の重要性がハイライトされ続け、いつしか教育と学習の目的が大学受験における成功にそっくりそのまま置き換わる。

そうした感覚がさらに一般化し、学問、知識、教育、学習といえば全て受験勉強がその代表として認識されるようになる。

そうした受験勉強と学問の不幸な同一視に基づいて、「「学問」は意味がない。」「そんな「お勉強」ができてもばかだ。」「ガリ勉で勉強ばかりしてきたやつは、社会で全然役に立たない。」といったアンチ・アカデミズムの姿勢が表れてくるのかもしれません。

知識社会化への道のりは遠い?

しかしそれではなぜ、他の国々でも多かれ少なかれ学歴が職業選択の幅を決めるという学歴社会の現実があるにもかかわらず、過度な受験戦争は日本やその他幾つかのアジアの国々においてことさら強く見られる現象なのでしょうか。

その問いを考えるのに、学問や知識というものがどれだけ文化に浸透し、その社会が知識化されてきたかということを推論して見るのがいいかもしれません。

日本の近代化は西洋の技術や文化を取り入れることによって起こりました。西洋からの技術を取り入れ、社会制度を近代化していく。工学、法学、医学等々の学問の生み出す実利がそのプロセスを支える原動力の一部であったのは間違いありません。

特定の学問的知識が特定の職業の必要要素として認識され、 それが、学歴社会化に進んでいく。そのような学歴社会化への圧力は 近現代化を遂げた社会にはつきものなのではないかと考えられます。

一方で、学問がもつ実利を超えた文化的側面が深く浸透している社会であれば、ある程度の学歴社会化への圧力が自然であったとしても、受験戦争につながる方向性を抑制できるのではないかと考えます。

知識の追求は人間の根本的な欲求、活動であり、それが学問の営みとして現象し、その営みを追求することが、人間としての心の豊かさや充足をもたらす。そういった形で、学問や知識の価値が直接な社会的実利を超えて理解されている場合、学問が競争の道具としてのみみなされるような現象は起こりにくいのではないでしょうか。

こうした意味で、受験戦争は、文化の一部としての学問の成熟を待たず、社会的必要性から実利を急速に追い求めた日本の近代化の帰結の一つであったと推論することもできます。文化の一部として学問の理解が浅いこと自体が、日本のアンチ・アカデミズムさらに助長しているということができると思います。

教育やトレーニングへの疑い

アンチ・アカデミズムや、その背景にある受験戦争、文化としての学問の認知の浅さは、学問だけでなく、教育への根深い不信にもつながっていると私は実感してきました。「学校で何を学んだって、付け焼刃。」「天才は天才。バカはバカ。」「教育ごときで、人間の本質や能力がそう簡単に変わりはしない。」このような不信は学校だけではなく、他の分野でも広く存在するのではないでしょうか。

「会社が推奨するので、このトレーニングを受けるけども、どうせ効果は一過性のもので、私は私。」「優秀なあいつはあいつ。」才能というものがあり、それが人間の能力を大きく左右して、学習やトレーニングでは才能の決定づける範囲を大きく変えることはできない。

そうした教育やトレーニングに対する不信感はどこの社会でもある程度ありうることかもしれませんが、日本ではことさら頻繁に耳にします。

アンチ・アカデミズムと、さらには教育やトレーニングへの不信感。学生や社会人が、学問に実利以上の価値を見出せず、知的成長の可能性を信じられないことがしばしばあるならば、それは日本社会の大きな負債であり、取り組んでいかなければならない大きな課題です。昨今取り上げられている様々な教育改革の試みが身を結ぶことを期待しています。

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