【特別連載|私の学びの遍歴】第一回 小中学生時代編

特別連載

今週から「特別連載企画」として全9回にわたり、自己紹介も兼ねて、私の学びの遍歴(小中学生時代〜アメリカ大学院生時代)をお話しさせていただこうと思います。

また、私の自己紹介だけではあまりに実りがないと思いますので、私個人の学生体験と実感を書き綴りながら、教育に関する私の考えをいくつかハイライトしていこうと思います。

それと同時に、後ほど学育に基づく「生徒の才能を伸ばすヒント」を提案する際に言及する教育用語や考え方も紹介していきたいと思います。

今回は「第一回」として、私の小学生時代にスポットライトを当ててお話いたします。

私、星友啓は東京都大田区で生まれ、神奈川県の川崎市で育ちました。

周辺には、川崎の工業地帯、NEC、CANNON、FUJITSU等の日本を代表する企業の本社が立ち並び、周りの商店街も活気があり、地域の人々で賑わっていました。

私の両親はとある商店街で生花店を経営していました。商店街や地域のコミュニティーが活発で、近所の人々が密に関わり合いながら暮らしていました。

仲良しのラーメン屋の息子とその妹と、ラーメン屋の漫画や雑誌を読み漁る。
近所の八百屋のお兄ちゃんと、話しながら、八百屋の手伝いをする。
ちょっといたずらをして、怖い薬局の親父にゲンコツをもらう。

父親の花束の配達で取引先の会社に行って、受付のお姉さんからごほうびをもらって大喜び、近所で評判の変わったおじさんの家に友達と入り浸たる。地域の人は皆顔見知り、子供が来ればどこの子供かわかる。褒めたり叱ったりもする。

そんな「地域のコミュニティー」の中で、幼少期を過ごしました。

保育園、小学校、中学校と近所の公立に通いました。当時は小学校で、40人体制の各学年6組から8組ほどという規模。(現在では2クラスがやっとだそうです。)

近所の商店街の自営業、もしくは、周辺地域の中小大企業企業で勤務する人々、自営業を営む人々、 役所で働く人々、わりと裕福だったりそうでなかったり、地元の大家族だったり、最近移り住んだ核家族だったり。

生徒たちはそれなりに多様なバックグラウンドから集まっていました。PTA活動も活発で、様々な形で地域コミュニティーが学校を支えていました。

一方で、学校も地域の経済活動を下支えしていました。学習用品、文房具、日常雑貨、薬、行事等での食事、等々、数千人の生徒や生徒の保護者、家族と学校生活、行事の上で必要なサービス、物資の多くが、周辺地域から調達されていました。

学校は、式典、祝い等のみならず、校内花壇、理科クラスの観察研究、等々で意外に花が多く必要になるので、私の両親の生花店も、学校にはだいぶお世話になったり、お世話したりの関係で、父親は夢にまで見たPTA会長の「大役」を引き受けることにもなりました。

小学校の頃の成績は5段階評価で、ほとんどが3でした。時々2や4があるくらいだったと思います。学校では教科書の教材をすべて網羅的にカバーすることは少なく、特に必要な部分をかいつまんで、先生たちが各々のやり方で教えるというような形です。

ドリルや漢字練習等の反復練習が多かったように記憶しています。生徒がより多く漢字を練習するように、小学区3年生の時の担任の先生が、漢字券というシステムを使っていたのをよく覚えています。

ノートに一つの漢字熟語につき1行、10行で10行券がもらえる。100行分、忘れ物や宿題遅れなどの時にゲンコツをもらわなくて済む権利を得ることができる。

1000行たまると先生のうちに行ける、などなど。今から考えてみれば、いろんな意味で「興味深い」ですが、当時は楽しく漢字券を集めていました。

1000行たまった時に、他の生徒と先生の家に行き、遊んでからご飯を食べさせてもらったりして、楽しく過ごした思い出でを今でも覚えています。

ある時、先生の家の近くで他の生徒と遊んでいた時に、頭を打って、夕刻まで先生の家で寝かせてもらったことがありました。店を終えた両親が迎えに来てくれました。

こういったエピソードは、私や私の家族に限られた珍しいことではなく、当時のごく自然な学校と地域の密なかかわりあいの一例でしかありません。

小学生の間、習い事はほとんどしていませんでした。学校から帰ったら、友達の家か近所の公園、もしくは商店街で遊ぶ日々。

少年野球、ピアノ、公文、そろばん、英会話、等々、友達が通っている習い事をみて真似をしたくなり試してはみるものの、1度か2度試して行かなくなるというパターンです。

ただ一つだけ、ある個人宅で習字を数年習っていました。あまりに態度がわるく、数年経ってその先生に嫌気をつかれ、やめなくてはいけなくなってしまいました。

他の学習塾等は一度も行ったことがありませんでした。特に親にこうしろああしろと言われることはあまりありませんでした。宿題も自分でやるか、時には親にやってもらっていました。

夏休みの自由研究では、母親のつくった小銭の出し入れが機能的にできる「消費税対応財布」が市の賞をもらったこともあったと記憶しています。片付けや、手伝いなどもあまりうるさく言われてやっていたような記憶がありません。

ただ、利かん坊の類だったので、だいぶ親を困らせたとは思いますが。

小さい頃の夢は飛行機のパイロットと、少年の将来の夢としては、当時ごくありがちな夢をあげていたように思います。

ただなぜか、将来は「東大に入る」ということは小さい頃から言っていました。母方の祖父が東大出の外交官であったということを聞いていたのが胸にあったのではないか回想しています。

そういった家庭環境で母も、もとは裕福なお嬢様で、学習院大学を初等科から卒業している。祖父が早く亡くなってから家族が離散し、母が東京で下宿先を転々としている時に、ある喫茶店からの出前番のアルバイトをしていた父と出会った。それから近郊のスーパーの軒先で花を売り始めて、生花店を営むに至った。

花屋の息子である自分にも、祖父、母の知的なヘリテッジがある 。そんな感覚を胸に、 子供らしく自分の家族へ健全な誇りを抱いていたのではないでしょうか 。

中学では柔道部に入りました。新任の先生が新たに始める運動部で、進入した1年生を中心に部員が募られ、私は中学1年にして突如部長の役を仰せつかりました。

両親の生花店の地域での役割から「星さんのところの子なら」というような感じだったのだと思います。多少体つきは良かったものの、習い事や、運動クラブなどを全くしていなかったので、いきなり運動クラブの部長に抜擢されるような所以はありませんでした。

しかし、その役を仰せつかったせいか、それでも3年間楽しくやりがいのあるクラブ活動をしていきました。

クラスの中では、ちょっとしたひょうきんもので、授業中にも気軽に発言して、クラスの笑いをとったりするのが好きでした。調子に乗りすぎて、クラスで反感をかったり、教師に叱られたことも数多くあったと思います。

学年で中心的な「クールキッズ」の中には入っていませんでしたが、「2軍」ぐらいの位置にはつけていたのかもしれません。リーダーシップの役割を担うのが苦ではなかったので、学級委員になったり、生徒会の役員を引き受けたりもしました。

私の通った学校では、自分で立候補するというよりも、先生や他の生徒から推薦があり、そうした役を引き受けるというのが通例のようでした。

自分でもまんざらでもなかったので、来るものは拒みませんでした。ただやはり、調子にのるようなところがありました。中2の時には周りの反対を押し切り、生徒会会長の対立候補として立候補して、 落選してしまいました。

出来レース的な生徒会選挙をぶっ壊すなどと言って立候補したものの、選挙期間中に先生方からも、もう少し謙虚に行かなくてはならない、などと指導を受け、周囲の期待を裏切らず、対立候補におよびませんでした。

落選の次の日は学年主任に呼び出され、優しくケアしてもらった記憶があります。

少年時代もあんまりモテる方ではありませんでしたが、中学生活の終わりにかけて、少し恋愛もしました。

中学に入って柔道部に入った頃は体つきもどっしりしており、見た目にもあまり気を使ってはいなかったと思いますが、思春期に入り、色々と気になりだして、ダイエットをしたり、髪型を意識したり、人並みにやっていたと思います。

校則が厳しく、整髪料は禁止でした。気にせず髪型をバッチリと決めていましたが、不思議と指導を受けませんでした。成績もそれなり、親はPTA会長等々で、色々大人の事情があるのもしれないと思っていました。

さて、私の「小中学生時代」の思い出話をさせていただいてきましたが、ここまでに浮かび上がってくるテーマの一つとして、「学校と地域共同体の関係」が挙げられます。

学校にとって地域共同体は欠かすことのできないリソースです。
更にいえば、学校は地域共同体に支えなしに成り立ちません。

根本的に、教育というものが決定的に異なる人々の間の協力や共同を必要とするものだからです。

良い教育を成り立たせるには、当たり前ながら、生徒は教師の協力を必要とします。教師が役割拒否をしてはクラスが成り立ちません。教師も生徒の協力を必要とします。

近年では生徒たちがクラスで動き回り、クラスが成立できない例も報告されているくらいです。良い教育に必要なのはそれだけではありません。

個人の成長は複雑で担当教師一人ではサポートの範囲に限界があります。ましてや、生徒と教師の関係が思う様にうまくいかないときだってあります。

生徒の両親や家族と、学校との程よい協力関係があってこそ、生徒をよりよく理解し、サポートすることができるのです。

また、生徒や教師、保護者の枠を超えた、地域のコミュニティーと学校との良好な関係も非常に重要です。

まず、学校は 地域の大きな面積を占有し、多くの人々にとって地域の重要な活動の拠点となります。地域のインフラを存分に活用し、経済活動を支え、支えられて、学校活動が成り立っています。

そうした場が、地域との良好なつながりなしに、十分に機能することは ありえません。

しかし現在、様々な地域で共同体が急速に空洞化しつつあり、これまで学校などの教育機関が前提としてきた「地域共同体」のリソースやサポートが失われつつあります。

最近ニュースなどでも取りざたされるようになった、生徒の外で遊ぶ声がうるさい、通学中の生徒たちが邪魔であるなどと言う地域の教育機関へのクレームは、そうした現状の良い例を提供しているかもしれません。

かつては、生徒の家族同士の利害を調整したり、様々な人々、家族を包摂したりする役割の一部を共同体が担ってきました。

地域の有力者が間に立って問題を解決したり、利害対立を取りまとめたり、変わり者とレッテルを貼られたような人でもグループの中に取り込んで、みんなでうまくやっていく。

激しいクレームを学校にぶちまけるモンスターペアレントや、PTAでの親同士のいじめなど、共同体が機能している場合には共同体内部の機能によって抑制されうるような現象が現在の教育現場での問題の一部にもなっています。

コミュニティーなくして、学校なし。

私たちが、未来の教育を考えたり、子供達の進路を考える時、一つの重要な視点にしていかなければなりません。

【追伸】対談動画はご覧になりましたか?

スタンフォードオンラインハイスクール校長が教える!
『子育ての科学』

というテーマで
星校長にお話していただいた対談動画が
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まだの方はぜひご覧ください。

■対談詳細はこちらから!
https://note.com/hoshi_parenting/n/n73f258021cb7

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